暗闇というスパイスをふりかけたコミュニケーションは異次元の世界だった
会社の同期に誘われ、ダイアログ・イン・ザ・ダーク(以降DID)に参加してきた。こういうイベントがあるということは耳にしたことがあった気がするが、行こうと決断することもなく数年が経っていた。
外苑にあるダイアログ・イン・ザ・ダークの常設会場は、賃貸契約の関係で今月いっぱいで閉鎖し、その後のオープンは未定だそうである。
落ち着いた空間で、初めて出会う8名が顔を合わせ、スタッフによるブリーフィングを受ける。時計、携帯など光ったり音が鳴ったりするものはすべて外し、中で使う小銭以外は手ぶらで入場しなければならない。
ガイド役の全盲のスタッフ(村ちゃん)が登場し、互いに自己紹介。呼び合うためのニックネームを付ける。
小部屋に入場して白杖(はくじょう)を渡されてから、徐々にライトが落とされ、完全な真っ暗闇に。光の漏れは一切なし。
村ちゃんに先導されて庭のような場所へ着き、促されて辺りを散策。
白杖と手さぐりの感覚を頼りに、頭の中で地図を描き、自位置をプロットする。壁(藪?)沿いに一周したつもりが、元の場所に戻ってきたのかすらあやしい。空間はまだしも、動き回る人の位置関係の把握はさらに困難。皆に気付いてもらえるよう(特に女性に不用意に触れてしまわないよう)、ラジオジョッキーのように、自分が何をしているかを声に出して動く。
徐々に暗闇に慣れながら、皆で小川を越え、東屋に着いて靴を脱ぎ、部屋へあがる。
いつの間に、声色だけで誰が話しているのかわかるようになっていることに気付く。さらに足音、衣擦れや息遣いで互いの動きを察知できるようになる。
単なる「壁」という認識ではなく、表面の質感、壁の高さ方向の連続性、地面の質感と組み合わせて記憶するなど、普段意識しない情報に敏感になっていく。
感知できる範囲が非常に狭いので、さっきまで見知らぬ人同士だったというのに、踏み込まれたくないプライベートの壁が取り払われていく。
手を差し伸べ、肩を寄せ合い、声を掛け合ってお互いを気遣うのが心地よく、またそうされることがとても心強い。
たくましい肩、温かい声、華奢だけど頼りになる柔らかな手、遠くで自分を呼ぶ明るい声。一つ一つに、一人の人間としての個性と意思が感じられ、愛おしくなる。それらの個性は、見た目、肩書、年齢といった普段半自動的に使っている軸とは別次元で、はるかに人間的な感じがする。
ついさっきまで赤の他人だったのに、家族や旧知の友のような親近感が芽生えている。初めてデートで手をつないだとき触れた彼女の指先に、全神経を集中した甘酸っぱい思い出が突如よみがえってきた。
ふたたび靴を履いて先へ進み、原っぱへ寝っ転がった。もちろん星も薄明りもないが、潮騒のような葉擦れのような音がかすかに聞こえ、建物の中にいることは全く忘れていた。
村ちゃんに「出発」というお題を出され、2,3人のグループに分かれて話をした。
ベッドに潜りこみ電話で友達と話している感覚に近いが、生の音の情報量は圧倒的で、場所と時間を共有していることを強く感じる。
普段は口にしないようなプライベートなことを抵抗なく話し、それを噛みしめながら聞く。
言葉ではなく、心で会話しているようだ。
あっという間に時間が過ぎ、暗闇の喫茶店へ移動した。柑橘系のさわやかな香りの中、元気のいい店員さんの「いらっしゃいませ!」に迎えられる。
ガイドの村ちゃんと同様、店員さんも全盲の方。手際よく長テーブルへ案内され、おしぼりが渡され、メニューが紹介される。8名が、思い思いにワインやジュースなどを注文。
店員さんは、メモをとれるはずもないが、どうやって覚えているのだろう。
やがて各自に間違いなく飲み物が運ばれてきて、お菓子とともにいただく。
頼んだのはマンゴージュースだが、ネクターと言われればそんな気もする。白ワインを一口飲ませてもらったが、赤白の区別もつかない。皿にどのように盛られているのか、どのくらい残っているのか。
香りに対する感度が上がっている一方で、「食べる、飲む」を楽しむ情報量がうんと減っている。おいしいという感情には、食べものの見た目も大きな役割を果たしているのだ。
そして元の世界へ戻る時間に。
小部屋へ移り、徐々に光が戻ってくる。めまいのような、VR酔いのような、ちょっとした平衡感覚の動揺を感じた。
気分が悪いというより、ビックリハウス、ホーンテッドマンションの錯覚エレベーターのような、脳内のセンサーネットワークのキャリブレーションが行われている間の居心地の悪さに近い。日常の外界と自己の認識においていかに視覚が大きなウェイトを占めているかがよくわかる。
体験後のアンケートを記入しながら、改めて90分を共にした参加者とガイドの村ちゃんに対峙すると、闇の中での彼・彼女らのイメージとまったくリンクせず不思議な感覚である。面白い小説を一気に読んだ後、目の前にその主人公を名乗る人が現れたら、こう感じるのかもしれない。
視覚無しで感じた彼、彼女らの人柄は、とても儚く、視覚からくる情報量とその現実感に圧倒されてどんどん上書きされそうになる。百聞は一見にしかずというが、逆に「見る」ということが、見えたこと以外の重要な情報を捨ててしまう、「わかったつもり」の危うさもあるのだということを思い知らされた。
そんな感情の波に揉まれながら、連れてきてくれた友達に合わせ帰り支度などをして、気付いたら会場を後にしていた。
本当は、あの8名ともっと話をしたかった。でも、明るくなったあの場では、声をかけられなかった。
暗闇の世界で成立していた一体感、親近感が、この明るすぎる日常でも継続できるのか、少し怖かったからかもしれない。ついさっき書いたアンケートで、「人を信頼してますか?」という問いにMAXで「はい」と答えたのに…。
こうして初めてのDID体験は、たった90分で最高の仲間とスタンドバイミーを実体験してきたかのような濃密な記憶として刻まれながらも、
その最高の仲間が実際の友人になったわけではない不思議な終わり方をした。
DID公式サイトの説明にある、「暗闇のソーシャルエンターテイメント」という一言は、まさにその通りだと思う。
twitterや2chのような、日常のIDからある程度解放されたアバターを使ってネット上でコミュニケーションを楽しむこととの共通性もありながら、時と場所を共有する生身の個人どうしの対話という圧倒的な臨場感、それゆえのなりすましや偽装のないありのままの個性の表出、それでいて自分ですら認識していない新しい自分を発見、他では決して体験できないエンターテイメントだ。
残念ながら、現在の東京会場のイベントは閉鎖までの8月はほとんど満席となっていてその後の予定は公開されていないが、新しい会場で継続するそうである。
また1年後くらいに、新たな場所で始まるDIDに参加してみたい。
今回の経験が、1年を経て自分の友人や同僚、家族との対話の仕方に、どのような変化を及ぼしているだろうか。
2回目のDIDでは、終わった後に友達になろうと言えるのだろうか。